風水にふれる里 最上川舟運と清水城址

  • エリア:大蔵村清水・合海・赤松地区  
  • 団体名:大蔵村
 文明8年に最上氏一門であった成沢満久(清水満久)が入部し、そののち、村の中心を蛇行しながら流れる最上川左岸に突き出た段丘に自然の地の利を生かした城を構え、七代にわたり最上郡の大半の地を領していました。河川舟運が急速に発達した江戸初期、清水氏が滅亡するまでは、酒田~清水間が最上川舟運の中心でした。清水河岸は「船継」権が認められ、最上川の上り下りの舟を支配し、商業活動も盛んに行われていました。
 このように最上川舟運によって発展してきた街並み、清水城址、歴史的文化遺産等が多く存在しており、舟運の終了とともに多くの歴史が村民の記憶から消えようとしている時、最上川の歴史と文化を後世に正しく伝えていくことが、私たちに求められています。

保存・活用の取組み

  • 清水城址における文化財等(古文書)の調査と報告書の作成。
  • 最上川舟運に関する調査と講演会等の開催。
  • 文化財と歴史的文化等の住民への認識と案内人(説明)の人材育成。
  • 清水城址の案内標識と鳥瞰図・説明板の設置。
  • 最上川舟運を中心とした文化財等のパンフレット作成。
  • 伝統芸能の保存と後継者育成。
  • 「出羽三山登拝図」の活用と保存。
  • 清水城址周辺(県指定文化財エリア)の草刈・除草・東屋と遊歩道の整備。

主な構成文化財等

 白須賀のミズコナラ【村指定天然記念物】  光明寺のキャラボク【村指定天然記念物】
 大蔵太鼓  清水城址にまつわる史跡等

清水城跡【県指定史跡】

 清水城は最上川の左岸、通称比良(ひら)にある中世~近世の平山城跡です。文明8年(1476)山形城主最上氏2代直家は北進策の一環として六男兼義(成沢城主)の子満久を清水に配しました。満久は清水氏を名乗り、はじめ白須賀に居館を構えましたが、後にその下手の当地に築城し、落城するまで7代138年間にわたって治民施政にあたりました。清水城は、最上川左岸に突き出た段丘と、その周りの深い谷とからなる自然の要害にあたり、地の利を生かした本丸東西36間・南北46間、二の丸東西52間・南北43間の連郭式でした。
山形の宝検索navi「清水城跡」

合海田植え踊り

 清水城主が広めたといわれているこの合海田植え踊りは、約450年の歴史と伝統があり、今日なお保存会の手により伝承されています。田植えの終わった6月の「さなぶり」に合海集落全戸を訪れ極めて珍しい「門づけ舞い」を毎年披露しています。
 また、近年、保存会では、地元の子どもたちへの伝承活動を行っており、田植え踊りの担い手の育成にも力を入れています。

出羽三山登拝図【村指定文化財】

 この絵馬は作の巻の大谷家(湯殿山大日坊大蔵出張所)の所蔵であったが、出張所が廃止となったのを機に、大谷家と大日坊の特別のはからいで、村に寄贈いただいたものです。絵馬には、作の巻出張所を出発し、最上川を舟に乗って湯殿山に参詣に出る大勢の道者の姿が描かれ、八向山をはじめとする神社の風景を配した構図は見事であり、特に人々の風俗などに当時のお札打ちの繁栄ぶりを知ることができ貴重な歴史資料であると考えられます。筆者の菊川渕斉は狩野探渕の門下生として江戸で絵を学び、幕末から明治中期頃までに新庄に居住し絵師として活躍する傍ら数多くの弟子を育てました。

夏山塚

 5代義高公戦死の地。当時庄内3郡を領していた武藤氏が、勢いに乗じて最上地方に侵攻してきました。清水氏5代義高公も最上勢の主将としてこれを迎えうち自ら陣頭に立って勇戦奮闘しこれを退けました。しかしその時義高公も深手を負い、鳥打場(合海~本合海間)において戦死しました。永禄8年(1565)6月2目のことでした。法名の凉清院殿夏山存公大禪定門にちなんで夏山塚といわれるようになりました。
 宝暦13年(1763)義高公の200回忌に先立ち、清水城の遺臣が集まり義高の供養のため碑を建てたものといわれています。碑の前は合海と本合海を結ぶ旧道であり、旧領主の前を通る者みな笠を取ったといい、別名笠取峠ともいいました。

地図

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わたしたちが案内します  大蔵村文化財保護委員会 電話:0233-75-2323

  • 【アクセス】(清水城跡)JR奥羽本線新庄駅から車で約30分
  • 【問合せ先】大蔵村教育委員会生涯学習係  電話:0233-75-2323