600年以上の歴史と文化を持つ中世城下町の面影偲ぶ街並み
平安時代に山寺立石寺が開山されると、いくつかの石造文化財に表される豊かな心と信仰心が高擶(たかだま)地区に生み出されていきました。600年前に斯波義直が居館を置いた後には、山寺からの水と豊富な湧水が堀を満たし、周辺の寺を移して四隅を守らせた城下町も形成されていきました。
羽州街道や立石寺と慈恩寺を結ぶ東西の道が通り、参勤交代時の大名や旅人が当地を往来し豪農も多かったこの地の面影は、今も残る黒板塀や門、見越しの松などからうかがい知ることができます。
高擶の貴重な歴史等を地域内外へ情報発信しながら、多くの人が訪れる地域づくりを推進する活動をしていきます。
羽州街道や立石寺と慈恩寺を結ぶ東西の道が通り、参勤交代時の大名や旅人が当地を往来し豪農も多かったこの地の面影は、今も残る黒板塀や門、見越しの松などからうかがい知ることができます。
高擶の貴重な歴史等を地域内外へ情報発信しながら、多くの人が訪れる地域づくりを推進する活動をしていきます。
保存・活用の取組み
- 高擶歴史ロマン探訪散策ツアーとマップの更新
- 地域案内板等の補修・新設
- 案内マニュアルの作成と案内人養成講座の開催
- 「清池の石鳥居」敷地の環境整備
- 地域の魅力・価値の情報発信
主な構成文化財等
【県指定有形文化財】・清池の石鳥居
【町指定無形文化財】・石佛寺の石仏群 ・清池の六面薹幢 ・安楽寺の山門 ・高擶夜行念佛 他
【未指定】・願行寺 ・皇太神社 ・尾曳稲荷神社 ・河上神社 ・高擶聖霊菩提獅子踊り 他
清池(しょうげ)の石鳥居 【県指定有形文化財】
山寺街道と横街道の交差点から、少し北へ入った畑の中に立っている石鳥居は、凝灰岩石製で高さ3.87m、笠木(かさぎ)5.91m、柱の太さは周囲2.79mあります。柱の上に載る笠木と島木は一石からなっています。笠木・島木とも、両端は垂直に切られています。貫(ぬき)や束(つか)は失われていますが、貫を差し込んだ痕跡が両方の貫穴に残っています。
西向きに立っているため、ものは山寺に向かって立っていたと考えられています。山形市元木、東根市六田(与次郎稲荷神社)の石鳥居とともに、「最上の三鳥居」の1つといわれ、ほぼ同じ様式であり、平安時代後期の建立と推定されています。
→山形の宝検索navi「石鳥居」へ
西向きに立っているため、ものは山寺に向かって立っていたと考えられています。山形市元木、東根市六田(与次郎稲荷神社)の石鳥居とともに、「最上の三鳥居」の1つといわれ、ほぼ同じ様式であり、平安時代後期の建立と推定されています。
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高擶城址とその碑
高擶城は600年前に山形城主斯波兼頼の孫、義直によって築かれました。四重の堀で囲まれた輪郭式の平城で、堀には山寺からの水や湧水を取り込み、周辺にあった寺院を移して四隅を守らせ小城下町がつくられていきました。丁字路などの道、街並み、地名などに今も面影が残っています。
堀については時代とともになくなり、昭和40年代に全て埋められたため、今日では一部堀跡のようすが伺えるのみとなっています。
昭和54年に、郷土に遺されたかけがいのない旧跡を将来に伝えていくために、高擶城二の丸大手門口付近にあった旧高擶村役場(現楯之内公民館)の地に高擶城址の碑を建立しました。碑文の揮毫(きごう)は、高擶城にゆかりのあった天童城主の末裔である、天童家第24代天童頼信氏によるものです。
堀については時代とともになくなり、昭和40年代に全て埋められたため、今日では一部堀跡のようすが伺えるのみとなっています。
昭和54年に、郷土に遺されたかけがいのない旧跡を将来に伝えていくために、高擶城二の丸大手門口付近にあった旧高擶村役場(現楯之内公民館)の地に高擶城址の碑を建立しました。碑文の揮毫(きごう)は、高擶城にゆかりのあった天童城主の末裔である、天童家第24代天童頼信氏によるものです。
黒板塀、土塀のある街並み
高擶地域は江戸時代末ごろより、近郷になく豪農が多かった地域で、今もその面影として、長く連なる黒板塀や土塀、門、見越しの松、倉などが地区内の各所で見受けられ、高擶の繁栄当時を彷彿させます。現在も旧家のほとんどが在住しており、これまでに長く保存、維持されてきています。
地図
わたしたちが案内します 023-655-2052(高擶地域づくり委員会)
- 【アクセス】JR奥羽本線高擶駅から徒歩10分
- 【問合せ先】高擶地域づくり委員会(天童市立高擶公民館内) 電話:023-655-2052