とっておきの最上川~米沢市南部地区編~
芳泉町の町並み(石垣、ウコギ垣根)の景観
(所在地 米沢市大字芳泉町字六十在家)
大字芳泉町字六十在家町は、慶長6年(1601)上杉氏米沢移封(いほう)の時、百六十余戸の下級家士団が松川上流西側沿岸に配置され、開拓農地を耕しながら武術・学問に励み、かつ最上川源流松川の治水・利水事業に集落一丸となり心魂こめ力を注いできた。間口12m、奥行50mを基本に屋敷割りとし、松川氾濫の時は放水路になった道路両側の高さ約90cmの石垣塀が造成され現在まで大部分保存され、石垣にはウコギ垣根が植栽されてきた。尚、六十在家街道に面する庭木、古風民家が残存する上杉家下級家士の町並み景観は、松川堤防から六十在家、蛇堤を経て直江石堤に至る観光・研修コースのなかで重要な拠点である。(平成20年11月17日第10回米沢市景観賞(まちなみ部門)受賞)(文 山岸圓治郎)
直江石堤の見事な石積み堤の威容
(所在地 米沢市大字赤崩地区)
直江兼続(なおえかねつぐ)は、上杉謙信、景勝(かげかつ)に仕えた武将、慶長6年に上杉氏米沢移封(いほう)により、本格的に米沢の城下町整備に着手し、治水・利水事業を実施した。特に最上川上流松川西岸の谷地(やち)河原(がわら)堤防は最上川上流松川の氾濫から米沢の城下を守る重要な役割があり、現在も有効に機能し、米沢市街地を守備している。この工事は、直江兼続が陣頭に立ち下級武士を下知し築堤したと言われ、その代表的な治水遺構を直江石堤と称し、自然石の野(の)面積(ずらづみ)の威容が美しい石堤を中心に、現在、直江堤公園になっている。海老ヶ沢大橋~海老ケ沢橋の間の石堤は建設当時の形態が最も良好に残る石積である。最も古い石積が現存するところは、直江堤公園北入口駐車場付近で木造階段が付設された箇所であり、二段構築になっており最大幅は24m、高さ2.7mで江戸時代初期河川土木構築美の威容を誇るものである。(石積み遺構が明瞭に残る1.2kmの範囲を、昭和61年9月8日に米沢市の史跡に指定された。)(文 山岸圓治郎)
蛇堤
(所在地 米沢市大字赤崩~大字芳泉町、最上川上流松川西岸)
比較的小さい短い堤防が断続的に地形により不規則に配置され、中世期に山城があった赤崩山(あかくずれやま)から蛇の様に繋がって見えたのであろう、古来地元では蛇堤(へびてい)と呼ばれてきた。文化9年(1812)7月9日の洪水で決壊した谷地河原堤防の改修工事については、「谷地(やち)河原御手伝川除(がわらおてつだいかわよけ)絵図(えず)」に、赤崩から芳泉町の範囲の改修された石堤について、御手伝と称して工事を担当した米澤藩(よねざわはん)の家臣団が記録されている。9月26日に完成、28日には、前藩主上杉鷹山が視察している。見学し易いのは、芳泉町上外れ(南側)、幅約4~8m、高さ1.5m、長さ130mと、芳泉町下の丁西裏で幅4m、高さ3m、長さ25m である。(文 山岸圓治郎)
猿(さる)尾堰(おせき)の取水口に隣接する龍師火帝碑
(所在地 最上川上流松川西岸、南原東李山丹南)
直江兼続の一連の治水事業で、南原李山地内に堰を造り最上川上流松川の水を取水して、南原五ヶ(みなみはらごか)町(ちょう)の用水や、米沢城三の丸西側の堀となった堀立川へ流すための重要な堰が猿尾堰である。慶長19年(1614)ころ、ようやく完成した堰の鎮守(ちんじゅ)としてこの石碑を建立したものと思われる。石碑は安山岩の自然石で、高さ約1m、幅約3m、全長2.7mと巨大のものである。その中央に、「龍師火帝」と大きく籠彫り(かごほり)(字の輪郭を線彫する手法)され、この左脇に弥勒菩薩(みろくぼさつ)の種子(しゅし)並びに傳燈叟髄(でんとうそうずい)記之の文字が刻まれている。直江兼続が僧髄に碑文を書かせたものと思われる。中国南朝、梁(りょう)(502-549)の武帝の時代の四字句韻文『千字文』の中の一句で、龍師は風雨を司る水神であり、火帝は火の神を指す。(文 山岸圓治郎)