とっておきの最上川 村山~大石田編 真下さん

初夏の最上川

1 最上川合流点 最上川の源流は吾妻山系に発する松川ということになっているが、昔はこの松川と、飯豊山から流れる白川とが合流するところから最上川ということであった。

 私は四十数年このかた最上川ばかり描いて来て、かねて源流はともかくこの合流点を一度見てみたいと思っていた。それが最近になってようやく果たせたのである

 初夏の晴れた日であった。

 本流とみなされる松川に白川が二つに分かれてひそやかに注いでいる。

 左岸であるその下手は広い河原である。対岸は山がやや迫り麓にはアカシヤの花が盛りだ。長井市の街が近いのだが、このあたりは見渡すところ人家もなく閑散としていて、それがかえって風趣となっている。

 上手の、二つの川にはさまった小高い丘の何となくその昔、 塚か砦があったのではないかと思われるような姿が目をひく。

 丘を背景に岸の柳の明るい緑が快い諧調を作っている。二つの流れが合して、だいぶ川幅が広くなっているものの、水量も少なく、まだ最上川という感じは薄い。

 だがその流れは、ここから凡そ二〇〇キロに及んで顕現する種々相(流れそのものにしても、碁点、早房の急湍、芭蕉、茂吉の詠んだ瀬や渕、果ては酒田の海に入る汪洋とした流れなど)の、それぞれの胚珠を宿しているもののように思えた。

 絵と文  真下慶治  1981年

 

大淀の最上川(村山市 大淀)

2 大淀の最上川

 三難所の碁点・はやぶさ 中間の三ヶの瀬―その三ヶの瀬の1キロほど川上の右岸に大淀の部落がある。

 ここの最上川はその名のごとく 大きな淀となってゆったりと流れている。

 私は10数年前ここに仕事場を設け冬のうちだけ来て仕事するようにしていたが、3年前の夏、めずらしくひと月ほどここで過ごした。

 仕事場から少しのぼった川岸の杉林の中で写生をしていたら、大工さん(仕事場を建ててくれた)が見つけてやってきて、邪魔になる笹やぶを刈り払ってくれた。

 この大工さん、私と同年で、小学校時代、ここの最上川を描いた図画が展覧会で県知事賞になったという(その古びた賞状額が大工さんの家の長押にかかっていた)ことほど左様に絵が好きで、私には何かとよくしてくれたのだが、翌年の夏亡くなって、今はいない。

 絵と文  真下慶治  1984

 

はやぶさ(村山市 大淀)

3 はやぶさ

 芭蕉が「奥の細道」に「―こてん はやふさなど云おそろしき難所あり」と書いているが これは大石田でか、人の話に聞いてのことであろう。

 「最上川舟唄」の“ごてんはやぶさヤレみかのせも”は 流れの順からいけば“ごてんみかのせヤレはやぶさも”となるのだが口調からいってうたいいいようにしたものか。

 それはどうでもよいことで、隼の瀬(この辺りの地名は早房というそうだ)は最上川きっての急湍で、あちらこちら岩が突き出ていて、舟が大へん難儀をした処に違いなく、眺めがまた佳いのである。

 大淀の仕事場から近い(1キロ足らず)ので、私は四季を通じて描いてきたが、やはり冬が多い。

 積雪が深くなると、山ぎわと杉林の間の100メートルそこそこをカンジキを穿いて30分もかかるのであった。

 絵と文  真下慶治    1984年

 

春の最上川 元屋敷(大石田町 海谷)

4 春の最上川 丹生川が最上川に入ったあたりの流域を元屋敷というそうだ。

 宝暦年間(今から200余年前)そこにあった集落が大洪水で東の台地に移り、今は地名としてだけ残っているというのだが、2万5千分の1の地図にも記されてはいない。

 四月になって、ようやく雪が消えかけたころから何度か写生に通った。

 岸に近い中州一帯の柳の木々が、幾日か氾濫(はんらん)した水にひたっていたが、おいおい根もとを現わし、新芽は日増しに色味を加えていった。

 対岸の集落は川前、山は大高根である。

 絵と文  真下慶治  1984年

 

最上川江村(柏沢・柏谷沢)

5 最上川江村 「最上川はみちのくより出で・・・・・・板敷山の北を流れて果ては酒田の海に入る左右山覆ひ茂みの中に船を下す・・・・・・白糸の滝は青葉の隙々に落ちて・・・・・・」と芭蕉の『奥の細道』にあるが、この辺りを最上峡といっている。

 私はここから十キロほど上流の右岸に近い村で生まれ早くからこの辺りの風景に親しんできた。

 「柏沢・柏谷沢」は最上峡が終わりもうすぐ庄内平野が開ける地点だが、私は左岸から望むこの川沿いの集落が何とも好ましく、これまでずいぶんと絵にしてきた。

 集落の上手の大半は柏沢(私の生まれた最上郡戸沢村に入る)、下手の数軒は柏谷沢(飽海郡松山町に入る)である。

 流れを前にして立つ私の背後に国道を隔てて大きな石碑がある。

 それには、「殉難の碑 戸沢村立古口小学校教諭伊藤弘・小関正芳両君の霊ここに眠る 両教諭は昭和四十五年四月二十五日運動会練習のため児童八名を白糸分校に引卒しての帰途渡し船転覆す 投げ出された子らに手をつながせ円陣を組ませるなど適切な指示を与え全員救助されるのを見届け自らは力尽き増水した春の最上川に沒し去った ここに前途有為の青年教師の殉職をいたみ・・・・・・」と刻まれている。

 画面の右方の細長い屋根が柏沢分校である。

 白糸分校は二キロほど上流にあり白糸の滝が真向かいに落ちている。

 年を経てもなお恨みは深しである。

 最近(平成元年十一月)ここから数百メートル下流に「最上川中流堰」なる工事が始まった。

 七か年継続事業で柏沢・柏谷沢の全戸十五戸の集団移住も予定されているとか、私のこの好ましい風景もいずれ消え去ることだろう。

 絵と文 真下慶治  1990年